一般席
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このプロジェクトのスタートは遡ること8年前の2004年。
まだメジャーもアンダーグラウンドも右も左もかろうじて座標というものが存在していた音楽シーンに、ジャズミュージシャンの方々を中心とした新しい潮流が、ジャズのみならずシーン全体に影響を及ぼすだろうという匂いを孕み始めた頃、『BOYCOTT RHYTHM MACHINE』というアルバムとなって生み落とされ、始まりました。
そのアルバムの制作中、彼方此方のライブに通い、レコーディングに立ち会う中で、ジャズミュージシャンの方々が持つ「即興演奏」に対する研ぎ澄まされた感覚に強烈に惹かれていきました。ジャズというフォームでは最も根深いところに位置する考え方。 それは単にプレイに留まらず、行動のすべてが即興の積み重ねであり、個人として独立して生きるとはどういうことかという所までをも含んだその考え方を、肌身を持って知る機会に恵まれました。
その感覚をどうにかして共有したい。
続く『BOYCOTT RHYTHM MACHINE II VERSUS』はそういった欲求から生まれました。
"初めて顔を合わせる二組に、即興で、1日で作品をつくってもらう" というテーマのドキュメント作品として、ジャズを中心としたミュージシャンと異ジャンルの若手ミュージシャンとが対戦形式で「VERSUS」することで、年齢やイディオムの違う音楽家同士のぶつかり合いから溢れ出す、新しい音楽と言葉を綴じ込められたら、という考えのもと、8ヶ月かけて作品は完成。結果、とても大きな反響をいただくことができました。
その後、2009年、2010年に「対戦型即興」というコンセプトを残し、ライブヴァージョンを開催。
ライブでは、より感覚的に鋭敏に生の音楽を体感できる環境を提示したいということでシチュエーションに徹底的にこだわり、"セッション"とは一線を画すような、音によって交わされる人間同士のコミュニケーションの核そのものを抽出しようと試みました。
当然ながら2011年もライブを行いたいと思っていた、まさにその矢先に、東日本大震災はやってきました。
その時、もはや「VERSUS」なんていう取り組みは出来ないと直感的に思いました。
音楽によるバトルなんて何の意味も持たない、そんな事をしている場合ではない、と。
当初3月16日に行う予定だった <スガダイロー vs 向井秀徳> は当然のごとく、震災の影響により開催を延期しました。
震災前に決めていた最新の「VERSUS」、振替日程は5月11日。地震からまだ2ヶ月という時期に開催する事になりました。
今でも、当日を思い出しながら、その日のことを自分はうまく言葉にして説明出来ません。
あのような難しい時期にあっても、向井さんとスガさんの二人が見せてくれたのは、それでもDUOやセッションではなくて、純粋な「VERSUS」だったような気がします。
そして、まだ全く先の見えない状況の中ですら集まってくださったお客さんはそれを察知し、これまでのように新しい音を感じたいとか、プロレス的ゲーム性のようなものを求める雰囲気ではなく、男と男の真剣な対決を固唾を呑んで見守りながら、体の中にステージ上の出来事の隅々までを噛んで砕いて摂取していくような、それでいてなぜかとても暖かい空気に会場全体が包まれたのを覚えています。
そこからまた3ヶ月が経ち、自分の背中をさらに押してくれたのは、8月15日に大友良英さんらが開催した<フェスティバルFUKUSHIMA!>でした。
放射線の影響を軽減させる措置を考えながらの、人類史上初めての音楽フェスティバル。
会場には行けず、それでも1日中USTREAMで生中継される3つのチャンネルに釘づけになっていた中で始まった、「詩の礫」。
和合亮一さんの詩の朗読に、即興で大友良英さんのギターと坂本龍一さんのピアノが音を紡いでいく様子を見つめながら、音楽が与えてくれる、ある偉大な力に気づきました。
それは、今鳴らされている音楽を通じてその音楽家の想いを想像する事、その音楽家同士の関係性を想像する事、それらをふまえて、自分と対峙する事。
音のなかに音楽家の生い立ちを感じ、これまで生んできた音楽をつぶさに見つけ、そのひとつひとつを紐づけ、
その音楽家と自分との出会いや関わり、音を通じて培ってきた数多の思い出を辿り、そのひとつひとつを紐づけ、
それらを、丁寧に、編み込み、織り込む。
演奏を聴きながら、自分自身と深く向き合うことが出来ました。
そして、そのような気づきが生まれ得るのは、音楽家同士が真剣に向き合い、無心から音楽が立ち上がる瞬間に喚起されるものだと確信しました。
このとき、ようやく決心がつきました。自分がやってきた仕組みをこれまで通り変えずに、進めていいんだと思えました。
このイベントでは、美しく甘いハーモニーが響き続けたり、踊れるリズムが流れ続けたりはおそらく、しません。
会場が一体となって決まったメロディを歌う事もないと思います。
一般的に”音楽”と呼ばれる型のものは、もしかしたら最初から最後まで鳴らないかもしれません。
でも、3月21日、後楽園ホールに集う、世界中から愛されている日本人の音楽家から発せられるその音を聴き、
一挙手一投足を見守るという原始的な所作が、あなたにとって間違いなく震えるような圧倒的体験になると思います。
その刻その地がどんな感情の産まれる「場」になるか。
自分も観客のひとりとなって、全神経を集中して体験したいと思っています。
2012年、個人が、即興的に社会を生き抜いていかなければならない時代が本格的に幕を開けました。型だけの世界は終わりです。
3月21日を見届けた後に、なにをBOYCOTTし、なにとVERSUSするべきかが明確に見えてくる気がしています。
その日を、一緒に楽しみましょう!
2012年1月6日
vinylsoyuz 清宮陵一
夏目現(映像作家)
僕がBOYCOTT RHYTHM MACHINE(以下B.R.M)と関わったのは2006年に発売された『B.R.M II VERSUS』の映像監督を務めさせて頂いて以来で、その後も2009年、2010年、とVERSUS LIVEを記録し続けてきました。『B.R.M II VERSUS』の撮影は2005年に始まったのでB.R.M.とは7年の付き合いとなっています。
『B.R.M II VERSUS』で僕の目に浮かび見えたのもの、それはそれほど多民族国家ではない我が国においての音楽におけるマルチカルチュラリズムでした。言葉や歌が少なく、そして即興で、使われた楽器はピアノ、ラップトップ、シタール、タブラ、ディジュリドゥ、コントラバス、エレキギター、サックス、ストリングス、ターンテーブル、パーカッション・・と世界中の楽器や機器が多種多様に。こう陳述すると無国籍な音楽になりそうな筈なのですが何故だかやはり同じ人種の血をざわめかす何かが響いていました。それが知りたくて『B.R.M II in Lonesome Nation』というディレクターズカット版を作って上映までさせて頂いたのですが、特に明確な答えなど出る筈も無く、「日本人とは?」などとあてども無く、音楽や芸術においてはある意味で無価値な問いに挑みもしました。今、冷静に見返すと閉塞し始めた日本人である僕自身のすがりつくような問いであり、一方でそこにはそんな僕やまわりの空気をも巻き込んで蹴散らすような、どこにも無い音が鳴っていた気がします。
そして舞台は移り2012年、話は大幅にそれますが、今年は僕にとってはある意味で世紀末Yearだと思っています。それはマルセル・デュシャンが初のレディメイド作品『自転車の車輪』を制作した1913年から99年目にあたる年だからです。その後、レディメイドシリーズは1917年に史上最も有名な便器であり史上最もスキャンダラスな芸術作品『泉』へと連なってゆきます。なので来年はレディメイドの着想から100年経過した発想をしなければと美大出の僕は自分に勝手に誓っています。そのような意味で今年は〆切の年のような感覚があります。僕にとって今年がある意味で〆切の年であるように、誰しもにそのようなmy〆切my世紀末がある様に思います。日本にとっても図らずもそのような感覚があるような気がします。昨年、震災が起こり、また近い将来、首都直下型地震が起こると言われている現在、否応無しに身にかかる天災やエネルギーの問題など、あらゆる面で〆切を迫られている気がします。
そんな状況と私情が絡み合う中、B.R.Mの主催者である清宮氏から今回の後楽園ホールの記録の依頼を受けました。企画内容を聞いた時には驚きました「坂本龍一vs大友良英」・・なんて凄まじいVERSUS・・<フェスティバルFUKUSHIMA!>にも記録で入らせて頂いていたのですが、その時は和合亮一氏を含めていわば同じチームとして大きな問題に挑んでらしゃっていて鬼気迫る演奏をなさってました。しかし今回はその二人が向き合うことになる・・それを僕は記録する。そしてその後も続々と魅力的なVERSUSが決まってゆきただならぬ雰囲気が漂ってきました。
前述した世紀末的な感覚、そこへの焦燥感、ニヒルな作家の終末的な空想を目の前で見せられている様な嫌悪感、戦う人、逃げる人、進む人、裏切る人、助ける人、立ち上がる人、いろんな光景といろんな感情があふれかえっている今という時、その時を捉える事が映像というものの宿命で、捉えた映像は今ではない「過去」や「異世界」として記録となってゆきます。記録するメディアはハイビジョンで、目で直接見れて手で触れられたフィルムから、0,1にデジタル化された高画質で高精細なメディア。デジタルとアナログの優劣はさておき、1920x1080ピクセルで記録や放送されるこのメディアはとにかく生々しく現実を映し出すことが出来ます。ジガ・ヴェルトフや原爆の映像がハイビジョンで撮られていたらどう感じるでしょうか?モノクロやフィルムによる、言わば”昔フィルター”がかからずにそこに居た人たちが記録されていたらどう思うでしょうか?昔の人をメディアが劣化なしに隣に居る人の様に記録できていたら。
私事ではありますが、昨年、祖母が数え年で100歳で亡くなりその感覚を痛感しました。祖母は生の目でデュシャンが「自転車の車輪」を作っていた時の空気を見ていたんだなぁと。その祖母の遺体を見て生々しく時の厚みを痛感しました。そしてもう一つ私事ですが今年娘が生まれました。100才まで生きるかは分かりませんが、この子が今後どれだけの情報を飲み込んで生きてゆくのかと思うと、これから僕が撮る記録は気が抜けないなと思います。そしてそんな節目の年にこの企画を記録する、面白い時の巡り合わせを感じます。
最後に、J.L.ゴダール監督の「女と男のいる舗道」の劇中、文学者らしき老人がアンナ・カリーナ演じる娼婦に言うセリフを。
「話すことはもう一つの人生だ、別の人生だ、話すことは話さずに居る人生の死を意味する」
僕はB.R.Mを記録している時にこのセリフがよく頭をよぎりました。人間は所詮物質の代謝と電気により動いています。しかし、そんな機械的な一面だけでもなく、通過する区切られた時を過ごしている訳でも無く、沢山の人や音や文化や自然の刺激に揺さぶられながら思いがけないような自分の感覚の記憶を呼び覚まし代謝している。B.R.Mにもそんな代謝を強烈に促す力があると思っています。
速水健朗
古来から闘いと音楽は、分かち難く結びつき、互いに互いを必要としてきた。鼓笛隊や行進曲、それに進軍ラッパなどは言うに及ばずだ。
歴史的に見ても国歌の多くは闘い=戦争やナショナリズムをルーツに持っている。フランスの国歌、ラ・マルセイエーズは、元々「ライン軍のための軍歌」だし、かつてのソ連の国歌「インターナショナル」は、労働者たちの闘いから生まれた歌である。
闘いの水面下にも音楽は潜む。日本は大平洋戦争時、軍部がレコード会社のビジネスに介入し、戦意高揚を目的とした戦時歌謡、軍歌を発売させた。一方のアメリカは、外地で戦う兵隊の頭上に、軽快なスウィングジャズのレコードを、蓄音機と一緒にパラシュートで投下した。戦時歌謡 vs スイングジャズ。これが、大平洋戦争の水面下で勃発していたもうひとつの音楽の戦争だった。
闘いの場は、また音楽の場でもある。第二次世界大戦、ドイツ占領下のパリにおいて、レジスタンスたちは、拠点とするカフェの地下でジャズのレコードをかけ、踊り狂っていたという。
闘技場もまた音楽の場として機能する。マンハッタンが、摩天楼へと姿を変えようとしていた19世紀末、ニューヨークのマジソン・アベニューにあったマジソンスクエアガーデンが、コンサートホール、劇場を併せ持った70フィートの「ブロック状」の建築物として完成する。
この建物は、幾度かの移転が行われたが、その名はボクシングやプロレスの歴史的な試合が行われた場所として記憶されてきた。中でも、有名なのは、1971年のモハメド・アリ対ジョー・フレイジャー、当時無敗同士のヘビー級タイトル戦だろう。この世紀の一戦が行われたこの場所は、同時に音楽のホールとしても知られている。
その翌年のエルヴィス・プレスリーのマジソンスクエアガーデンでのステージも伝説となった。3日間で7万8000人を動員したこの公演は、最初から最後までを収録したライブアルバム『エルヴィス・イン・ニューヨーク』として残されている。
日本でも闘技場は、音楽の場と結びついてきた歴史がある。日本では、ビートルズが来日し、演奏した場所がまさにそれに当たる。
東京オリンピックが開催された1964年。元々、近衛師団の兵営地だった場所に、今大会から正式種目となる柔道競技のための会場として、日本武道館は建てられた。翌年からボクシングの会場としても利用されるようになり、ファイティング原田の世界王座防衛の舞台として記憶される場所となる。
1966年、ビートルズが来日した折、会場としてバンド側が出した条件が、1万人以上収容できる会場を確保することというものだった。当時の日本には、その規模のコンサートホールはなかった。そこで、矢面に上がったのが日本武道館だったのだ。10000人が熱狂するための場、それは、闘いのための場であるか、音楽のための場ということになる。
学園闘争が華やかだった時代には、学校やストリートも闘技場だった。バリケード封鎖が実行された新宿高校の音楽室から、ドビュッシーが響き渡っていたという。ヘルメットをかぶって演奏していたとされるのは、高校生時代の坂本龍一である。東大紛争で学生たちが立てこもった安田講堂でグランドピアノの弾いていた女性運動家の逸話など、似た話少なくはない。当時の伝説のひとつであり、真偽のほどはわからない。
さて、日本で最高の闘いの場といえば、ボクシングやプロレスの聖地、後楽園ホールをおいて他にないだろう。
後楽園ホールの開業は、東京オリンピックよりも前の1962年。日本武道館、現在の国技館よりも歴史がある。ボクシングは言うに及ばず、この年「空手ボクシング」と呼ばれたのちのキックボクシングの大会「第一回空手競技会」が開催されている。プロレスの興行が始まるのは、その翌年のこと。以後、格闘技とは切っても切れない場所となっていくのは周知のとおり。
かつては音楽のコンサートホールとして用いられていた時代もあったという。だが、いまでは、すっかり格闘技のための場所という印象が強い。『BOYCOTT RHYTHM MACHINE VERSUS LIVE』。音楽と闘いをテーマにした、このイベントの開催場所として、これほど重要な意味を持った場所は他にない。
鈴木健.txt(元・週刊プロレス編集次長/表現ジャンルライター)
プロレスマスコミとして取材する立場の人間にとって、後楽園ホールは自宅やオフィスに匹敵する空間である。週に一度は興行がおこなわれ、年間では200近くに及ぶと推測される。それ以外にもボクシング、キックボクシング、総合格闘技といったリングを闘いの場とする競技が日夜繰り広げられている。
一方では日本テレビの長寿番組『笑点』の収録会場として使われ、プロダンス競技会も定期的に利用。そうした中、気がつくと音楽のライヴがおこなわれなくなっていた。昭和の時代から“格闘技の殿堂”の名をほしいままにする後楽園だが、90年代初頭あたりまではコンサート会場としても浸透しており、P-MODELや上々颱風、人間椅子といったところが筆者の記憶に残っている。中でもA.R.Bは1986年3月31日に、ボクシング用のリング(プロレスはロープが3本で、その他の格闘技は4本)を組んでステージとして使い、四面にオーディエンスを入れた。
そんな格闘技の殿堂ならではのライヴ空間が消えて20年数年が経つと聞き、ヘェーと思った。厳密に言うと、プロレス興行の中で演奏がおこなわれたことはあった。2010年12月16日、みちのくプロレスのザ・グレート・サスケ(元岩手県議会議員にして史上初の覆面政治家)は映画『アンヴィル!~夢を諦めきれない男たち』へ必要以上に感化されるや「ロックスターになるんだ!」と高らかに宣言し「クレイジークルー」なる怪しいバンドを結成。試合を終えたあと北側に設置してあったステージへ移動し、ANVILの「Metal On Metal」やBON JOVIの「You Give Love A Bad Name」など3曲(全部コピー)を披露し、オーディエンスをニヤニヤさせた。
もっとも音楽業界にはまるで届いておらず、プロレス側から見ても20数年ぶりというのはまったくもって正しい。90年代に入ってからのバブル期は、新時代を感じさせるイベントスペースが続々と生まれたものだった。ライヴ対応のハコができれば、音響的にもそちらをセレクトした方がいい。
言うまでもなく、後楽園はコンサート専用会場とは違う。南側は固定席で、東西のひな段席と北側のステージ席は可動できるものの、やはり四方向から見られるのを念頭に置いた造りとなっており、中でも東西にある「バルコニー」と呼ばれる立見スペースが特徴。「どこから見てもリングサイド」と評されるいい塩梅のキャパシティーを誇るが、特にそこは目利きのマニアが開場と同時に走って階段を登り確保するほどの穴場と認知されている。
今や音楽との接点が消え、より格闘技の殿堂、プロレスの聖地のイメージが固定化している後楽園ホール。そこで闘いの匂いをまといつつ、ライヴの息吹を復活させんとする試みがおこなわれる。『BOYCOTT RHYTHM MACHINE VERSUS LIVE』は、過去にも前述したような通常のコンサート会場とはかけ離れた場所でやってきた。シチュエーションにこだわるのはエンターテインメントにおいて重要なポイントを担う。まったく同じ演目であっても、屋内と野外ではまるで印象が違ってくる。
プロレスはそれが特に顕著で、たとえば同じ大会場でも日本武道館と両国国技館でやったとすると、観客はそれぞれの雰囲気までを含めて体感し、楽しむ。だからどの団体も、まだ使用されていない新鮮味のある施設を発掘せんとアンテナを張っている。屋内だけでなく、リングを組むスペースさえあればどこでもやれるのが強みであり、東日本大震災以後には被災地を訪れて地元の皆さんに試合を見てもらった。
また、DDTという団体はリングさえ組まずに街の商店街やキャンプ場でもやってしまう。広大な山の中で闘う選手を追いかけながら観戦する参加型のプロレスは、通常の大会では味わえぬ楽しさを体感できる。音楽も、立派なステージの上だけのものではない。そこにわずかなスペースと楽器さえあれば一体になれる。
『BOYCOTT RHYTHM MACHINE VERSUS LIVE』が対戦形式をコンセプトに起ち上げられた試みであることを思えば、後楽園ホールへの“進出”が満を持してのものなのは説明不要だろう。そもそもアーティスト同士がUNITやDUOではなくVERSUSの関係でぶつかり合いつつ、ゼロから何かを生み出していくのはじつにプロレスという表現ジャンルの特性と合致する。
プロレスは、勝敗を競うのがまず大前提としてある。試合で白星を目指すのはもちろん、そこにはプレイヤーとしての存在感を示し、いかにインパクトを残すかも含まれる。たとえピンフォールやギブアップを奪っても、帰路につく観客の中へ敗者の方が強く印象に残ったら、それは真の勝利者とは言えない。アスリートとしての力量だけでなく、見る者を惹きつけ、心に伝わるものを表現できる能力が求められるのだ。
一方で、選手は観客とも闘っている。見る側の想像を上回り、楽しませ、驚かせ、そして感動させる…業界を代表するスタープレイヤーの全日本プロレス・武藤敬司は「作品」なる言葉でそれを表現する。ただ勝つだけでなく、ファンの心に残る試合を提供してこそ一流のプロレスラーというわけだ。
格闘技ならば勝つことさえ目指せばいいし、それが何よりも求められる。観客を楽しませるための姿勢は、あくまでもそこに付随するものだ。ところがプロレスは闘いであるとともに、大衆娯楽としてその2つに同列の価値観が置かれている。
勝敗を競う一方で、見る者の感情を揺さぶる表現者としての意識も持たなければならない。真逆の関係にあることを並行して実践するのだから、相当な技量が必要とされる。対戦する同士のどちらか一方にそれが備わっていても、相手が対応できなければ凡戦に終わってしまう。
認め合った者同士ほど、好勝負や名勝負が生み出される。そのような手の合った攻防を表現するのに「スウィングする」という言い回しがプロレスにおいても使われる。確かに、いい試合は見ていてジャズのような心地よさを覚える。
競技者であると同時に表現者でもあるプロレスラーは、相手と対戦しながらひとつの作品をともに築いていく。無論、試合はやってみなければどう転ぶかわからないから、ある種の即興性…つまりはアドリブ力が必須となる。
相手がどんな技を出してくるか読み、それを受けた上で反撃する。この技を食らって向こうは耐えられるか。耐えられなかったら好勝負となる前に終わる。逆に自分が耐えられなければ負けてしまう。肉体を動かすとともに、そんな内なる判断の積み重ねによってプロレスは展開されていくのだ。
こうしたやりとりを、音楽のセッションに例えるプロレスラーも少なくない。自分のペースに持ち込むのも戦法のひとつだが、お互いのリズムが合うと動きにグルーヴ感が生じトランス状態のようになるのだという。そして最終的にモノをいうのは、技よりも本能。表現することとは、個が持つ人間力をいかにさらけ出せるかへと行き着く。
プロレスラーもアーティストも同じ表現者。今回、後楽園ホールにて全4戦のVERSUSが組まれた。無の状態で向かい合い、本能を武器に即興で技を仕掛けていく。それによってスウィングするか、あるいは差が如実に表れる形となるかは誰にも予測できない。
必ずしも好勝負になるとは限らぬスリルと醍醐味もまたプロレスの魅力であるように、この『BOYCOTT RHYTHM MACHINE VERSUS LIVE』では“勝負論”がひとつの見どころとなってくる。相手が発した音やちょっとした仕草によって自分の出方も変わるだろうし、意図的に対戦者へ変化球を投げる戦術も考えられる。一瞬一瞬のシチュエーションによって、オーディエンスの耳に到達する音の流れが決まってくる。
その果てに観客の中で勝敗が決するか、あるいは作品としての出来栄えが判断される。一元的な結末に限らぬところも、じつにプロレス的だ。そんな音楽のリングの中へ、坂本龍一が足を踏み入れるというのはやはり興味深い。
YELLOW MAGIC ORCHESTRAとしても、またソロ活動においても希代のメロディーメイカーである坂本龍一だが、即興的なパフォーマンスに関しても早くから取り組んでいた。東京芸術大学在学時代はピアノを弾いてその場で作曲するなど当たり前のようにやっていただろうし、プロのミュージシャンになってからはジャズ、フュージョン系の演奏の中で能力をいかんなく発揮してきた。
YMO以後のファンの間では、1985年に筑波万博のジャンボトロンを使ったパフォーマンスライヴ『TV-WAR』が強烈なインパクトとして残っている。ヴィデオパフォーマンスユニット・RADICAL TV(原田大三郎&庄野晴彦)が巨大ヴィジョンへ流し出す映像に合わせ、サンプリング音源を即興でぶつける音と映像によるセッションは、メロディアスな作品とは一線を画した過激なスタイルだった。ピアノのようなスタンダードな楽器でも、あるいは時代の先端をいく機材を使っても、坂本龍一はインスピレーションによりそれらを作品として成立させてしまう。譜面に並ぶものだけが音楽ではないという信念が伝わってくるかのようだ。
もともと音楽とは、定まった型ではなく本能的な動作によって始まったはず。私は、以前に『ドラムストラック』というコンサートを見たことがある。南アフリカ共和国からやってきたパーカッション・パフォーマンスを楽しみながら、全客席に1つずつ置いてある太鼓「ジェンベ」を叩いてオーディエンスも参加するものでその場にいる全員、演者になれるのが特徴だった。
シロホンやマリンバ等を除けば、打楽器は音階がない。つまり、メロディーという表現手段に頼らず、リズムのみで楽しませる必要がある。しかし、物を叩いてそれを刻む即興的な行為はおそらく原始時代からあり、やがて司祭となって後世に受け継がれた。大勢の人間が集い、ともに楽器を叩いて刻むのは人類の根源的なパフォーマンスといえる。
2011年8月15日、福島市郊外で開催された野外フェス『FUKUSHIMA!』において坂本龍一は、今回の対戦相手である大友良英とともに詩と音楽によるセッション「詩の礫」に参加した。後半は鍵盤を奏でたものの、スタートからイスには座らずに朗読される詩に合わせてピアノの弦を叩き続けた。鍵盤楽器を打楽器のように使ったのだ。
しっかりと譜面に記された楽曲からは、YMOの坂本龍一やソロアーティストとしての姿が明確に浮かぶ。それに対して、即興に没頭すればするほど表面へディスプレイされたわかりやすい記号的質感の節々から、よりソリッドに人間・サカモトリュウイチがにじんでくる…そんな期待を後楽園では抱いてしまうのだ。
思えば70年代後半、坂本龍一は「カクトウギセッション」へ参加していた。同じ楽器を2人のプレイヤーが演奏し、音楽的な対戦をするというのがコンセプトで渡辺香津美、高橋幸宏、村上秀一、大村憲司、矢野顕子らがメンバーに名を連ねた。
ライヴは純然たる即興ではなかったがジャズやフュージョンの要素が盛り込まれ、音を技とするミュージシャンたちがステージ上で格闘していた。六本木PIT INNを「六本木国技館」と称し、チケットもリングサイド席、S席、立見席と設定(すべて同料金なのだが)するなど、このイベントより30年以上も早くプロレス及び格闘技をモチーフとしたアプローチを実践。つまり“原始BOYCOTT RHYTHM MACHINE VERSUS”というべき存在なのだ。
さらには「坂本龍一&カクトウギセッション」名義でリリースされたアルバム『サマーナーヴス』に収録された「カクトウギのテーマ」は、今も全日本プロレスでフルタイムドローに終わったさい流される(通常は勝者の入場テーマ)名曲として、ファンの間で親しまれてきた。そのナンバーを生み出した人物が後楽園ホールの空間に立ち、音楽を武器に闘うとあれば歓迎せずにはいられない。
そこで何を感じ取れるか――ひとつ確かなのは、我々は見にいくのではなく参戦するのだ。プロレスが選手と観客による闘いの場であるのと同じように、オーディエンスも即興的に自分をさらけ出すことでアーティストの表現性に影響を及ぼすかもしれない。受動的なスタンスよりも、その方が『BOYCOTT RHYTHM MACHINE VERSUS LIVE』には似つかわしい気がする。